二月の帰島から早くも半年を三宅島の島民は迎えた。
帰島期限の経過処置も七月末で終わり帰島した人々、帰島しない人々、様々な事情により帰島を延期している人々も、それぞれが新たな出発を余儀なくされる。しかし半年が経過すると帰島にも様々な喜びとともに悲しみで涙する人々も少なくない。
三宅島長谷川前村長は、五月十一日死去され、七月七日に阿古小学校体育館で約八百人が参列して葬儀が盛大に執り行われたが、いくつか追悼をこめふれたい。
全島避難二年目の十四年六月二十六日、東京新聞に四段見出しで「段階的な帰島あり得る」と大きな活字が躍っていた。長谷川・三宅村長インタビュー。この内容は今回の帰島手順に一部踏襲されているが根本的に違う。この年には、火山ガス放出も六分の一に減少し、島の道路も一周が可能となり風向きの反対に避難できる。国も一般住宅用クリーンハウスの建設を計画実施した。島民は、この村長のインタビューに力づけられた。私もさすが官僚上がりと違い島のことを熟知している、頼もしいと映った。自然破壊の上、家屋と事業所の損壊は日々深刻さを増し村の復興計画策定委員会や村議会でも激論が交わされた。しかし都の高官の意向で残念ながら引き伸ばされた。その為に、島民は「いばら道」で苦闘をしている。
世界に類を見ない噴火災害に直面した故長谷川村長の早期帰島への熱意は、三宅島島民連絡会の申し入れ等でお話をする機会でよく伝わってきた。連絡会に対する協力と理解は深く、村の管理職幹部とは異なりいくつか支援を約束されたが実現出来なかった。また事業で鍛えた様々な政策視点が健康上の理由から村職員幹部をまとめ上げ、都と国と渡り合いながら、島民との対話まで至らなかった事は故長谷川村長が一番心残りであったに違いない。私も七日の告別式に参列をしたが、友人代表の弔辞に感銘をした一人である。二人の友人は曰く。村長立候補の動機として、20年間島の結束を阻害してきた問題を自分の責任で根こそぎ解消したい。現在も存続する島のNLP誘致の防衛庁の事務所の撤去を自民党の防衛関係議員に働きかけることを依頼した、との秘話をお話になった事である。これらを総合しても、村民と対話する勇気と情熱を充分に持ち合わせていた人物であったと思われる。ご健勝であったらと残念でならない。合掌。
阿古の友人Aさんは、帰島の前年に現村長の帰島発表を聞かずにガンでお亡くなりになった。四年間、二、三ヶ月に一度浅草付近で情報交換をしながら数人で交歓した。Aさんは、避難生活が四年頃になると、お酒も飲めないのに赤ら顔で、合うたびに島民連絡会として早期帰島の署名をしてくれと私に強く迫るようになった。それから間もなく入院した。今度の新村長は帰島の時期を早期に示すに違いないと期待をしつつ帰らぬ人となった。
私たちは知らない。葬儀は。後で知ったのは、島でひっそりとお兄さんとお子さん二人だけで納骨をしたとのウワサ。もう少し長く生きていたら。もう少し帰島が早かったらと憤懣を秘めながら居酒屋で仲間達と献杯をするよりほかに、なすすべがなかった。合掌。
四年半の長期避難生活半ばで、望郷・帰島を祈りつつ黄泉世に旅立った人は二百人におよぶ。島民は、家屋の修繕、庭の草取り、仕事に精を出す者、帰島期限に追われて帰る人様々であるが、ようやくにして葬儀、納骨と避難生活の狭い部屋におかれていたお骨の納骨の儀がなされている。お隣と掛け持ちで二つを同時に執り行う等のこれまで経験の無い事態で神主やお坊さん達は多忙である。池袋の島民連絡会の対話集会で合同慰霊祭の発言もあり、マスコミで紹介された。親戚や兄弟が集り執り行われる場合もあるが、独居高齢者、特に島に移り住んだ人々にとっては、大変心細い。島民のAさんの例ではないが、五年間の孤独は死を迎えても、あまりにも寂しい。身よりも無く、合同慰霊祭を必要としている人びともいるのである。
七日には、たくさんの弔辞や弔電も紹介され『望郷の詩』も流れ祭壇は美しくすらあった。しかし確か避難生活の中で亡くなった二百人の御霊のことを誰一人触れなかったと思う。またこれも寂しいのである。すべての霊よ安らかに故郷で眠れ。合掌。
17年7月24日 赤鬼青鬼