ラジオ出演とその内容
「三宅島 帰れない日々~避難指示解除から2年~」
NHKラジオは、2007年1月12日午後10時15分から45分間にわたり三宅島の在京島民の声と「ふるさとネット」の活動を取り上げ放送した。2006年11月から当ネットや練馬区、江戸川区の「阪神・淡路大震災そして三宅島より」の集会の模様や在京島民の現状を新聞、ラジオ、テレビ等で帰島2周年との関連で報道され、被災地三宅島が浮き彫りとなった。
(ピン、ポン、ボン、ポン 二酸化硫黄が観測されました~三宅役場の警報の放送)
兼清アナウンサー 平成12年、2006年6月に噴火が始まった三宅島では、今なお火山ガスの放出が続いています。三宅島の人たちに対する避難指示の解除から2年、いまだに帰れない人たちは1,000人にのぼります。
在京島民(女) 帰りたくても帰れない本当の現状を知っていただきたいと思います。
在京島民(男) 我々はもう見捨てられたような感じ。1日も早く帰りたいです。
兼清 ホリデージャーナル「三宅島 帰れない日々~避難指示解除から2年~」、ふるさとの島を離れて暮らし続ける三宅島の人たちの今を追いました。
(歌:「冬のひまわり」)
大坊千代子事務局長 こんにちは、お待ちしていました。
佐藤就之会長 足元が悪い中、どうもご苦労さまです。
島民 おはようございます。
会長 どうも、どうも、おはようございます。
兼清 去年11月、東京巣鴨で三宅島の人たちが久しぶりに再会しました。集まったのは、避難指示が解除されたにもかかわらず、今なお島に戻れず、東京近郊で暮らしている人たちです。
司会者潮香織 それでは、皆様お待たせいたしました。ただいまより三宅島在京者・ふるさとネット懇親会を始めさせていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。
兼清 懇親会を開いたのは、三宅島に戻れない人たちを支えている三宅島ふるさと再生ネットワークです。三宅島の島民や学生、保育士など、ボランティアおよそ70人がメンバーです。
ふるさとの人々と離ればなれになり、都会でひっそりと暮らす島の人たち。家に閉じこもりほとんど会話のない人もいます。そうした人たちが久しぶりに島の仲間と再会し、笑い声も絶えませんでした。しかし、1人ひとりの近況報告が始まると、それまでの笑みは消え、会場は静まりかえりました。
会長 本当に、まだガスがとまらなくて帰れない人は、見通しのない避難生活が、1,000人近くもまだ続いているんだということは非常に問題点だ。~やはり人間が救済されなければ意味がない。
在京者(女) 本当にみんな、島民たちは心の中に随分、外に出る、傷口ではないのですけれども、血は流れません。でも心の中では血を流して生きているんです。私も力強く生きていきたいと思いますけれども……。きょうは精いっぱい口紅をつけて来ました。本当に皆さんとともに、東京で離ればなれですけれども、頑張って生きていこうと思っております。一緒に手を携えて、皆様、ともに歩んでまいりましょう。どうも、きょうはありがとうございました。(参加者の拍手)
(噴火当時 サイレンの音…)
島民 また噴火。これはすげえや。
兼清 平成12年、2000年6月、三宅島の雄山の火山活動が17年ぶりに活発化します。
アナ 本日 6月1日、あすから3日間で島外避難を決定した。
兼清 そしてその年の9月、三宅島の3,800人全員が島を離れて避難することが決まりました。
(頑張ってね!避難島民を乗せた船の汽笛 ボーー)
兼清 三宅島は、近年、およそ20年の周期で噴火を繰り返してきました。ここ数回の噴火はいずれも短期間で収まっていました。このため、当初、島の人たちだれもがすぐに島に帰れると考えていました。ところが、予想に反して避難は長期化します。三宅島の噴火災害史上、まれにみる火山ガスの長期間放出という事態が起きたのです。長く苦しい避難生活。三宅島の人たちはじっと島に帰る日を待ち続けました。
平野村長 避難指示の解除の時期でございますが、17年2月をもって避難指示の解除の告示に当たりたいと考えております。
兼清 平成17年、2005年2月1日、4年半にわたる三宅島の全島避難が終わり、人々はようやく島に戻れるようになりました。
島民 待ちに待った4年半です。
島民 不安よりも希望といいますか、喜びのほうが大きいですね。
(ガス発生の警報…)
兼清 しかし、三宅島では今もなお火山ガスの放出が続いています。島に置かれた44基の拡声器からは、昼夜を問わず火山ガスの注意を促すアナウンスが響きます。火山ガスは噴火後、減少傾向にはありますが、まだ1日平均2,000トンの多量のガスが放出され続けています。村では、島の14カ所で24時間体制で火山ガスを測定しています。火山ガスの濃度が上がった場合、注意報や警報を出し、注意を呼びかけています。特に、多量の火山ガスが観測される地域は、高濃度地区、立ち入り禁止区域、危険区域に指定され、島の45%は立ち入りが制限されています。また、島の人たちには常にガスマスクを携帯するように呼びかけています。このため、高齢者やぜんそくを抱える子供、高濃度地区に家がある人などは島に戻ることが難しいのが現状です。避難前の3,800人のうち、これまでに3分の2が帰島しましたが、島に戻れない人たちや帰島をあきらめざるを得なかった人たちはおそよ1,000人に上ると言われています。
勝見 工具がありますよ。ハンダごてからピンセット、ノギス、時計用の……。
金澤利夫ディレクター 三宅島で電気店を営んでいた勝見吉雄さん85歳です。東京立川市の都営住宅に妻のノブコさん、65歳と夫婦2人で暮らしています。三宅島を離れ、6年半がたちました。東京では、ご近所からよく家電の修理を頼まれるといいます。
勝見 島では、電気のことなら何でも直ってしまうというので、お医者さん扱いされていたんです。頼まれますよ、ここにおっても。テレビが写らないとか、ヒューズが切れたんだけれどもわからないから見てくれだとかいうことで、来ますよ。でもほとんど無料です。
金澤 島では腕のいい電気屋さんとして信頼があつかった勝見さんですが、東京では避難生活中にさまざまな病気に見舞われました。
勝見 私は、全部薬を持って歩いていました。これでしょう。
-- 気管支。
勝見 気管支ぜんそく、1回にこれを6錠でしょう。6錠で、これを1錠で7錠、7錠の、10錠飲んでいます。
-- 1回ですか。
金澤 勝見さんは、東京に来てから気管支炎などの病気や脳梗塞を起こし、何度も手術を受けました。
-- それの薬が全部で10錠。
勝見 10錠。帰ろうという意志はあるんですよ。だけど、ドクターストップなんです。
金澤 火山ガスが出続けている三宅島では、ぜんそくや気管支炎などの病気を持つ人はガスの影響を受けやすく、帰島が難しいのが現状です。島に戻れず、病気を抱えながら東京で暮らす勝見さん。その暮らしは決して楽なものではありません。
勝見 これは預金通帳ですけれども、預金通帳のしりを見てもらいたいんです。最後を見てもらえば大体わかると思います、生活の状態が。
金澤 勝見さんは、今、健康を生活の両面の不安を抱えながら暮らしています。現在、生活保護を受け、ぎりぎりの生活が続いています。
勝見 こちらが2万……。
-- 8万3,000円です。
勝見夫人 だから、8万円にお父さんの年金が2万くるから、10万くらいのものだよね。
勝見夫人 10万出たとしますよ、1万8,000円は家賃でとられるでしょう。介護費は年間4万幾らだから、1カ月4,000円くらいとられるんですよ。それも差し引かれるでしょう。それで生活ができますか。
おもしろいと思うのは、何で家賃を払わなければいけないのと思うよね。家賃分、1万8,000円とられるのだったらどうするんだと言いたくなる。
金澤 三宅島の被災者は、避難中は都営住宅に入居していても家賃はかかりませんでした。しかし避難指示が解除されてからは、どんな事情であれ、東京での生活は避難生活とはみなされず、毎月家賃を支払わなければならなくなりました。
さまざまな不安を抱えながら暮らす勝美さん夫婦。ただ、最も気に掛けているのは、三宅島に戻った長男家族のことです。
勝見 何だか、家内がどこでへそくったかわからないけれども、LLという卵が1箱、100個、2,300円で買ってきたんですよ。それで封も切らないで、私は1個も食っていません、三宅に送ったんです。
金澤 勝見さんが経営していた電気店は、今、長男の0000さんが継いでいます。三宅島の噴火は、勝見さんの店の経営にも大きな打撃を与えました。噴火によって店の経営はストップ、商品を購入した費用や運転資金などの多額の借金だけが残りました。その借金は、すべて長男の0000さんが引き受けています。
勝見夫人 借金をあいつらにみんな任せてしまったんだから、親としてそうは言っていられないでしょう。子供が育ち盛りなのに、卵を毎朝食っていくのにと思えば、やはり1カ月に一遍くらい何か送ってやらないとかわいそう。
金澤 勝見さん夫婦は1日の食事を2食に抑え、生活保護費の中から仕送りを続けています。夫婦とも、東京に来てからは新しい洋服は1着も買っていません。
勝見 正直な話、不安のない人はいないと思います。でも、私は税金で食わせてもらっていますから言いません……。でも孫たち、子供たち、どうやって生活しているんだというのが不安です。
金澤 今ちょうど引っ越し、まとめているところですか。
佐藤 まとめて、そうですね。
金澤 三宅島に戻れないのは火山ガスの影響だけではありません。子供の教育や就職の面から、島に戻るのをためらう子育て世代の人たちもいます。
東京北区に住む佐藤さん、38歳は息子が小学6年生のときに東京に避難してきました。息子はそのまま避難先の東京で中学、高校に進学。そしてこの春から専門学校に進むのをきっかけに、佐藤さんは息子を残してようやく三宅島に戻ることになりました。
佐藤 こっちに避難当時、小学生だったから、高校に入学してしまったしというのもあって、それでとりあえず高校を卒業するまではということで、残ることにしたんです。
金澤 佐藤さんは、三宅島で自営業の実家の手伝いをしながら息子を小学校に通わせていました。ところが噴火で家族とともに東京に避難。火山ガスによって、島に戻りたくても戻れない日々が続きました。その佐藤さんが直面したのは、東京で仕事を探すことの難しさでした。
佐藤 どこに行っても、結局いつまでいられるかわからないんでしょうという感じで、断られるんですよ。本当に、4カ月とか5カ月とか仕事が見つからなくてという時期もあったんですよね。そのときは、ご飯は親のところに食べに行ってみたいな感じで、職探しはきつかったですね。それを理由にとってくれないんだみたいな。
金澤 佐藤さんは、何とか派遣会社を通して職を見つけることができました。東京でやっとの思いで築いた生活基盤、それをもう一度ゼロにして島に戻るのは大きな決断でした。さらに、佐藤さんは避難中に気管支炎になり、火山ガスの影響を受けないか不安を感じています。
佐藤 多分、一番心配なのは自分の健康ですよね。今の状況で、気管支炎のこともあるし、本当に健康面が一番心配ですね。
金澤 健康問題、子供の教育、そして生活基盤をどう築いていくのか。子育て世代にとって、島に帰るという選択は大きな負担を背負うことになりかねません。
佐藤 私の同級生で、帰っているのは2人だけですものね。あと20代、30代、40代が帰ってきてくれると一番いいのですけれどもね。そういう働き方がしたいなとは思いますよね。それとか、観光面でも若い人も来てくれるような、何か魅力のあるものとか。そういうのをやるよと言ったときに、できるだけ協力はしたいなと思いますね。
伊藤奈穂子ネット訪問員 こんにちは。私、三宅島ふるさと再生ネットワークの伊藤と申します。いつもお世話になっております。
在京者 どうも・・・・・。
兼清 三宅島ふるさと再生ネットワークでは、東京に住んでいる島の人たちを訪ね、島の情報を届けたり、催し物への参加を呼びかけています。おととし会を発足させてから、東京都内のおよそ70世帯に延べ300回の訪問を行っています。さらに、島に戻れない人たちは避難指示が解除されてから全国に散らばってしまったため、1件、1件訪問しながら消息をたどり、名簿づくりも行っています。これまでに全国に散らばった220世帯を把握しました。こうした、帰島していない住民の情報は行政では把握仕切れていません。三宅島の島民で、ふるさと再生ネットワーク会長の佐藤就之さんです。
会長 本当に三宅島の場合は、世界に類のない火山ガスという被害であることと、長期化しているという、6年たってもまだ終わらないということで、前例がない。前例がないことは行政は手がつけられない。それから法律的にも、そういう場合の支援策が決まっていないということで、三宅の場合は、これから行政ができないことを私たち民間の手でフォローしながら、なおかつそこに問題があるよということを訴えていくということが、私たちネットワークの大きな役割ではないかなと思うんですね。
酒井一豊副会長 これはイモ、アカメ。おれからじゃないよ、会長からだよ。おいしかった。
兼清 メンバーの1人、以前三宅島で暮らしていた酒井一豊さん、63歳です。この日は島でとれる里芋の一種、アカメイモを仲間に配りました。酒井さんは20年間三宅島で暮らしていましたが、帰島をあきらめ、東京で新たな生活を始めることにしました。避難中に糖尿病が見つかり、毎日インシュリンを投与する生活を続けていること、東京で結婚したことがその理由です。このため、島に戻って復興を支えられないかわりに、東京近郊に住むかつての仲間を訪ね、支援をしています。
酒井 助けてもらったから、今、恩返しのつもりでみんなにやってやろうかなと思って。それしかできないですからね。1日口をきかないときもあるらしいんですよ、だれも来ないから。だまってうちにいるだけで。そういう人が多いんですよね。だから訪問するとみんな喜んでくれるんだね、話をしたいと言われてね。元気づける。こっちも知っている人だと元気づけられるしね。じゃあ、お互いに頑張ろうと言ってさ、風邪を引かないで頑張ろうと言ってさ。
(都庁記者クラブに於いて~)
会長 ここに、皆さんからの要望書の資料をお配りしております。特に被災者生活再建支援法についての延長を要望いたしました。ぜひ火山ガスがとまるまで・・・・・。
兼清 1月23日、三宅島ふるさと再生ネットワークでは行政に対して、島に帰る条件を改善するよう、働き掛けを行いました。三宅島の被災者に対するさまざまな支援制度がことし2月から3月にかけて打ち切りになることから、佐藤就之会長は、その延長を国や都などに要望しました。
会長 火山ガスに対する、被災者救済という問題が欠落をしているのではないかということで、強く感じるわけです。国のほうは諸制度が、2年間で被災者は自立できるだろうという前提で、被災者生活再建支援法はございます。長くても3年という考えです。そうすると三宅島はもう6年たっておりますから、結局打ちきります、打ちきりますと言っては、私たちが困ると言ってようやく伸ばすという。復興、復興というところで、大きなプロジェクトも準備をされておりますが、このような非帰島島民が1,000人もいるということが見落とされ、ないしは置き去りにされたという現状は、どうしても私たち自身の努力も含めて解決をしないと、帰島はままならないという現状だろうと思います。
兼清 こうした訴えを受けて、国や都などの支援制度が延長されることになりました。引っ越しにかかる、最大70万円までの助成や、住宅を再建する際の150万円までの支給制度などです。
会長 今までは、帰島した人は、おうちを直すために東京都から150万いただけたり、また畑とか庭の灰とりを無料をやっていただいたり、細かな、農業を含めた支援もあったわけですが、これは戻っていない人はできなかった。問題は、災害弱者と言われている人たち。ここに対することは、ちょっと放置するということは間違いではないかと思うんです。
兼清 会長の佐藤さんは、今回の支援策の延長は、島に戻れない人たちへの直接の支援には必ずしもならないと言います。会では去年11月、三宅島に戻っていない人たちの生活実態調査を行いました。その結果、3人に2人の暮らし向きが悪化し、過半数が今後の生活はさらに苦しくなると考えていることが明らかになりました。そのアンケートの自由記述欄には、戻りたくても戻れない胸の内がつづられていました。
アンケート朗読(男) 我々在京者を見捨てないでください。1日も早い、高濃度地区の避難指示解除を望みます。
同(女) 都営住宅と島の住宅での二重生活なので、電気、水道、電話代等、生活費も大変です。せめて家賃も補助してくだされば、生活費に回せるのにと思います。
同(男) 現在の状況は、避難したときよりも経済的に大変です。島に帰る人に対しては、帰島したときからいろいろと免除されることや、援助がありましたが、我々、帰らなかったというより、帰れなかった者に対しては、行政は冷たいものでした。私たちも好き好んで残ったわけではないのです。
同(男) 帰る気持ちでいるが、帰れない。それなのに島の家の修理費などは帰った人しかもらえないというところが納得できない。同じようにしてもらいたい。
同(女) ガスが来なくなれば、子供や孫たちが1年のうち何カ月かは島で暮らしたりできます。ガスがとまれば島に帰りたいです。
玉城長之助 はい、これで一丁あがり。こうやって入れるのね、ペン立て。5本入るから。
金澤 段ボールを材料にペン立てをつくっているのは、東京品川区に住む玉城長之助さん、86歳です。妻のタケさん、80歳と2人暮らしです。玉城さんも東京に残されたままです。
玉城 暇になるとこんなものをつくって、みんな、あちこちにくれて。
玉城夫人 だけど、さみしいですよね。やはりコミュニケーションがないでしょう。地元だと、あちこち歩いているうちにコミュニケーションができるけれども、それがつらいですよ。やはり同じ地元の方がいれば、何らかの話もできるんだけれども、それがつらいんですよね、我々、年をとった人にはね。
金澤 玉城さん夫婦は噴火が収まれば、真っ先に島に戻りたいと考えていました。ところが、玉城さんの自宅は火山ガスの高濃度地区に指定され、住むことが禁止されてしまいました。このため東京に残らざるを得なくなり、せめて島への船が発着する竹芝桟橋に近い場所に住みたいと、川崎の避難場所から品川の都営住宅に移転しました。しかし、この団地には三宅島の人は1人もいません。日一日と島への思いが強くなるばかりです。噴火で壊れた家の修繕のため、時折三宅島に戻りますが、一度行くのに夫婦で数万円の費用がかかり、頻繁には戻れません。
玉城夫人 自分の家があっても自分の家に入れないからどうしようもないんですよね。
玉城 それから、行くにしても、なかなか経費が大変なんですよね。それで、結局役場の条例では4時間しか入ってはいけない。家に入って、ただ戸を開けて風を入れるくらいなもの。本当に我々は見捨てられたような感じ、そういう気がしますよ。
金澤 火山ガスの高濃度地区に家のある世帯には、100万円の義援金が支給されました。そのかわり、東京での住宅への援助はなくなり、自分で家賃を払い、生活しなければならなくなりました。何とか三宅島に戻りたい。玉城さんは、今、ある募集に期待をかけています。
玉城 申込書、それからこれが申し込みの資格、これに全部書いてありますけれどもね。
-- 「三宅村営住宅入居者の募集について」と。
金澤 自宅に住むことができない玉城さんは、三宅村の村営住宅への入居を希望しています。三宅村は2年前帰島する人向けに210戸の村営住宅を用意しました。しかし、その後、それ以上の部屋は用意されず、今は退去した部屋への入居を抽選で決めています。島を離れていると、村営住宅応募の知らせも届かないため、玉城さんは村の知人に頼んでわざわざ応募用紙を送ってもらって、島に戻るチャンスをうかがっています。しかし、玉城さんはこれまで2度応募しましたが、ともに落選。3度目の募集に応募していますが、住宅の数はわずかです。
-- でも、これはあれですね、募集戸数が全部で5戸ですね。そんなにあきはないのですか。
玉城夫人 ないらしいですよ。
玉城 今、高濃度地区以外の人も、自分の家を修理するよりは役場の住宅に入ったほうがいいということで、結構入っているわけです。だから村とすれば、これは島民だから平等にするのが本当だから、ほかの人が申し込んでもやらなければ、役場の立場とすればあれですけれども、もう少し高濃度地区の人たちのことも考えていただきたいと思うんですよね。
金澤 3度目の募集の結果は、今月発表されます。3度目の正直となってほしいと期待をかける玉城さん、帰島にこだわる理由をこう話しています。
玉城 三宅は本当にふるさと。島に来れば、島じゅうの人が、話はしなくても顔でわかるんですよ、「おお、来たか」くらいの調子で。だから、そういうつきあいというか何というか、やはり島が我が家だという感じで、ふるさとに行って、自分の家で寝たいなという気持ちが、本当に今の心境です。1日も早く帰りたいですよ。
在京者 山本夫人 おはようございます。どうぞ。
伊藤訪問員 おはようございます。
金澤 三宅島ふるさと再生ネットワークが訪問している人たちの中には、島に戻り、商売を再開したいと考えている人もいます。東京練馬区に住む山本さん、66歳もその1人です。
伊藤 どうですか、あれから。
山本夫人 そうだね、あれから、だから屋根がまた漏ってしまっているの。きれいにそうじしてもらったじゃない。
金澤 山本さんは、三宅島で30年近く旅館を経営していました。最盛期には、部屋に入り切れないほどお客さんがやってきたといいます。
山本夫人 最初は4部屋でやったのですけれども、次の年には5部屋ふやして、それでまた2部屋ふやしてとか、毎年、毎年増築して、それでやっていたんです。もうお客さんでお客さんで、6畳に8人入るような状態。そのくらいお客さんが入ったの。それでも泊めてくれと。離島ブーム、そのくらい稼げたの。
金澤 しかし、その山本さんの旅館も火山ガスの影響があるため、営業はおろか、家にも住めません。
山本夫人 一生に一遍家をつくって、自分の人生って普通は終わっていくでしょう。家をつくって、ある程度家族、それで終わるのに、私たちはこの年になって、66歳ですが、家もなくなってしまったし、一生懸命働いて家をつくったのも全部だめ。そういう人生というのは本当に悲しいですね。考えれば、本当にむなしいですよ。一生懸命働いたのが無になってしまった、それはありますね。
金澤 それでも山本さんは、長年続けてきた旅館を再開したいと考えています。
山本夫人 やはりやりたい。お世話になった人たちへの恩返しに、1回は来て、泊まって、島がだんだん復活していくところを見せてあげたい。
金澤 現在、東京と三宅島を結ぶ便は、片道6時間の船しかありません。飛行機の運航は、噴火後途絶えたままです。年間の観光客は以前の半数の4万人にとどまり、80あった宿泊施設も半数近くが営業を再開できずにいます。
山本 家のほうはどうにかね。うちは民宿ではなくて旅館の登録ですから、旅館だと……。
金澤 三宅島の高濃度地区にある山本さんの旅館です。夫の00さん70歳は現在島の別の場所に仮設の家を建てて、1人で暮らしています。土木建設作業を手伝ったりしながら、1人で家を修繕しています。立ち入りは1日4時間に制限されています。
山本 こういうところが食われて、穴があいて。みんな薬を置いてあれしたんですけれども……。
-- ふすまに穴があいていますね。
山本 今は、こうして出ていないんですね。前は、やはりこうやってしばらくぶりにくるとネズミのふんですごかったんですよ。雨漏りをしなければね……。
金澤 山本さんはいつでも旅館が再開できるよう、少しずつ家の手入れをしています。しかし既に屋根の修理に数百万円がかかりました。また営業を再開するには、風呂場や台所、サッシなどを取りかえなければならず、数千万円の修繕費がかかると見ています。そして一番の問題は後継者です。旅館を継ぐことを検討していた板前の長男、0000さんが3年前に急死したのです。
山本 41だったですから。「おれが帰ってやろうかな」なんて、そんな話をしていたんですよ。「やればいいじゃねえか」なんてね、やっていたんですけれども。だって、僕らの後に住んでくれる人がいない。みんな、漁師もそうですけれども、やはりそれがネックなんですね。
金澤 山本さんの旅館の場所は東京からの船が発着する港に近く、周りにもたくさんの旅館や民宿がありました。
-- この周りは、まだやろうというところは結構あるんですか。
山本 民宿をですか。いや、この辺はないです。あれすれば、この上のうちがやるかどうか。大変なんです。民宿を買って、やり始めて噴火ですからね。あの下の人は民宿を買って……。
-- もうそっちに移った。
山本 そっちで始めていますからね。やっぱりあの人も大変だったですよ、買って間もなくだったですからね。やっぱり、ここはガスが来るのは間違いがない。ガスさえとまってくれればいいのですけれども。
金澤 三宅島の基幹産業、観光。その中心地は、いまだに火山ガスのため立ち入りが制限されています。住民の安全を確保しながら、観光業を復興させなければならないという困難を抱えたまま、三宅島は避難指示の解除から2年を迎えています。
(帰島2周年板橋の集いから)
出演者(子供) 雄山が噴火しました。灰がたくさん降ってきて、学校にも行けなくなりました。島にいると危ないから、子供は東京に行くことになりました。あきる野市というところの秋川高校です。お父さんやお母さんと離れて、学校にある寮に入ります。おじいちゃんが「疎開だね」と言いました。戦争のとき、おじいちゃんも体験したそうです。でも、どうしてお父さんとお母さんと離れて暮らさないといけないの? お母さんに「お片づけしなさい」と叱られたけど、秋川ではお母さんの声も聞こえません。
金澤 1月28日、三宅島ふるさと再生ネットワークが三宅島に戻れない人たちへの支援を呼びかけるチャリティショーを開きました。
ショーでは、阪神大震災で実家が前回した女優の京町(みやこ)さんたちが被災者同士支え合っていきたいと、「1・17と三宅島」と題して語りと歌を披露しました。三宅島を支援しようという動きは全国に広がっています。
出演者(男) 「今回の噴火にはやられた。いつもの噴火とは違っておった。今までは局地的に村がつぶれることはあっても、こんなに島が被害を受けることはなかった」。
兼清 三宅島の災害や、島に戻れない人たちの現状を伝える劇も上映されました。
同(男) 「おれは、こんな島に女房と2人でかいりたかったんだが、島にはまだ火山ガスが出ちょる。ぜんそく持ちの女房は島には帰れん。じゃが……」。
兼清 この日集まった130人の人たちは、島に帰れない人々の思いを改めて確認しました。
同(男) 「女房はいつも1人ぼっちじゃ。帰りたくても帰れない、でもいつか、みんなで島に帰ろう。それを合い言葉にわしらは頑張っちょる」。
兼清 残された人たちに声を掛け続けていくことが何より大切、三宅島ふるさと再生ネットワーク会長の佐藤就之さんはそう考えています。
会長 見通しのない避難生活が6年も続いているということに対する、気持ちをわかり合うと。私たち島民同士からいうと、帰っても残っても大変だけれども、残っている人はもっと大変だねという言葉をきちんと掛け合っていくということですね。お互いにひとときの、いやし合うというのか、やはりそういう気持ちのなごみというものをお互いに持ち続け、機会をつくりながら、失望感というものをいやしていく努力というのは、それくらいは何とか声を掛けることによってつくれるのではないかと思うんですけれどもね。
兼清 最後に阪神淡路大震災の被災者とともに、三宅島の人たちも励まそうとつくられた歌、「冬のひまわり」をみんなで歌いました。
(歌:「冬のひまわり」)
兼清 三宅島の仲間を訪問し続けている酒井一豊さん。
酒井 元気づける、こっちも知っている人だと元気づけられるしね。じゃあお互いに頑張ろうと言ってさ、風邪を引かないで頑張ろうと言ってさ。それしかできないですからね。
兼清 三宅島の村営住宅の入居に期待をかけている玉城長之助さん。
玉城 お互いに励まし合って、現在東京で住んでいるわけです。だけど、最後は三宅に帰りたい。いつかはふるさとに帰るんだという気持ちが、これはみんな持っているんですよ。
兼清 旅館を何とか再開させたいと考えている山本喜美代さん。
山本夫人 また民宿をつくって、お世話になった人たちへの恩返しに、島がだんだん復活していくところを見せてあげたい。
兼清 避難指示解除から2年、三宅村は島の基幹産業である観光の振興策を打ち出しています。島はようやく復興に向けて動き始めました。しかし、戻れない1,000人の人たちは取り残されたままとなっています。
(ナレーション) ホリデージャーナル「三宅島 帰れない日々~避難指示解除から2年~」。
「冬のひまわり」、作詞・京町、作曲・ヒロタコウジ、演奏・深夜工事。語り・兼清麻美、音声・ササキヒロユキ、効果・タナカシゲヨシ、リポート構成・金澤利夫、製作統括・スギヨソウキでした。
――了――